「男に生まれたからには、誰もが一度は“地上最強”を夢見る」とは、マンガ「グラップラー刃牙」の台詞です。そして、もっとも地上最強に近いと考えられている格闘技の一つがボクシングです。そのボクシングが現在の形になって100年を過ぎた今、世界の王座に君臨した偉大なるボクシングチャンピオンたちを紹介していきます。
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「男に生まれたからには、誰もが一度は“地上最強”を夢見る」とは、マンガ「グラップラー刃牙」の台詞です。そして、もっとも地上最強に近いと考えられている格闘技の一つがボクシングです。そのボクシングが現在の形になって100年を過ぎた今、世界の王座に君臨した偉大なるボクシングチャンピオンたちを紹介していきます。
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ボクシング史上最も偉大なボクシングチャンピオンとして名高いのがモハメド・アリです。アマチュアボクサーとして1960年のローマオリンピックで金メダルを獲得したものの、絶えることのない黒人差別に業を煮やして金メダルを川に投げ捨てた、という伝説を持っています。1960年10月29日にプロに転向、リングネームも本名のカシアス・クレイからイスラム教徒としてのモハメド・アリとしてリングに上ったのです。アリの伝説の中でも有名なのは試合前の「ビッグマウス(大法螺吹き)」でしょうか。時には予告KOを行い、時には相手を挑発し観客たちを沸かせ続けてきました。そして無敗のまま第19代世界ヘビー級ボクシングチャンピオンに上り詰めたのです。しかし1967年、ベトナム戦争への徴兵召集を、人種差別反対を理由に良心的兵役拒否しWBA(世界ボクシング協会)はアリのヘビー級タイトルの剥奪と4年間の試合出場停止を言い渡します。
リングに復帰後、アリはブランクに苦しみながらもジョージ・フォアマンから世界ヘビー級タイトルを奪還、この試合は「キンシャサの奇跡」と呼ばれました。1976年にはプロレスラー・アントニオ猪木との異種格闘技世界一決定戦を行っています。計4回に渡ってヘビー級王座を奪取「大統領を知らなくてもアリを知らない者は居ない」とまで言われたボクシングチャンピオン、モハメド・アリは1981年12月11日に行われたトレバー・バービック戦に破れ現役を引退、現在はパンチの受けすぎから来ると思われるパーキンソン病との闘病生活を続けています。実娘のレイラ・アリは現在WBC世界女子スーパーミドル級初代ボクシングチャンピオンとして活躍しています。
シルベスター・スタローンの代表作となった映画『ロッキー』の名前の由来ともなったボクシングチャンピオン史上、唯一の生涯無敗の引き分け無し(49戦49勝43KO)という輝かしい記録を打ち立てたボクシングチャンピオンです。この記録は、ボクシング全階級を通してもロッキー・マルシアノのみということです。ちなみに、映画『ロッキー』はロッキー・マルシアノをモデルとしたのではなく、モハメド・アリと接戦を繰り広げたチャック・ウェップナーの姿から着想されたと言われています。ロッキーは180cm83kgとヘビー級としては軽く(現在であればヘビー級の一階級下のクルーザー・ジュニアヘビー級)小柄な体格ながらも「肉を切らせて骨を絶つ」を体現した自身のタフネスと拳を持ってKOの山を築き上げていったのです。
そして1952年9月23日に行われた世界王座戦で、相手の第11代NBA世界ヘビー級ボクシングチャンピオンであるジョー・ウォルコット戦で激闘の末、13Rにロッキーの『高性能爆弾』と呼ばれた右フックが炸裂しKO勝利。ロッキーは第12代NBA世界ヘビー級ボクシングチャンピオンの座を勝ち取ったのです。その後6回の王座防衛戦を勝ち抜き、最後の試合となった1955年のアーチー・ムーア戦の後「もう戦う相手は居ない」という言葉を残して引退したのでした。そう、無敗記録の先にあったのは戦う必要の無い世界だったのです。残念ながら偉大なるボクシングチャンピオンであるロッキー・マルシアノは、1969年8月31日、セスナ機の墜落で45歳の人生に幕を閉じたのでした。鮮烈な強さを人々の記憶に残して、この世を去ってしまったロッキー・マルシアノはその前人未到の記録と共にボクシング史に今もその名を刻んでいます。
サルバドス・サンチェスはメキシコ出身の英雄的ボクサーとしてその名を知られています。1975年にバンタム級でプロデビュー後、19勝1敗の記録で二階級上げてフェザー級に転向。1980年2月1日にはWBC世界フェザー級ボクシングチャンピオンのダニー・ロペスを破りボクシングチャンピオンの座を奪取します。その後は1982年7月21日まで9連続防衛記録を伸ばしますが、1982年8月12日突然の交通事故で23歳の若さで夭折してしまいます。医者を志し、医学とボクシングの二束の草鞋を履いたサンチェスの功績は伝説として語り継がれています。ラウンド終了後の一分のインターバルで40秒かけて脈拍を正常に戻すという、医学的な理論に基づくタフネスと荒削りながらも眩い光を放つボクシングスタイルは、メキシコのボクサーたちの心に今も刻まれているのです。
1968年に17歳でプロデビューして2001年、50歳で引退するまで約33年というボクシング史でも類を見ない長期にわたって現役ボクサーを続けたタフガイ、それが『石の拳』ロベルト・デュランです。そのボクサー人生は栄光と挫折に満ちた波乱万丈なものでした。デビュー後無敗のまま連勝を重ね、1972年にはWBA世界ライト級ボクシングチャンピオンであったケン・ブキャナン戦に挑み13ラウンド、ボディブローでブキャナンをKOしボクシングチャンピオンの座を奪取します。新王者となったデュランの活躍はガッツ石松を含む11人の挑戦者をことごとく退け、なおかつノンタイトル戦までも王座防衛の合間に行うという凄まじいものでした。1978年にはWBC世界ライト級ボクシングチャンピオンのエステバン・デ・ヘススとの世界王座統一戦に望み12RKOでタイトル統一を果たしたのです。
その後ライト級ボクシングチャンピオンの座を返上し1980年には二階級上のウェルター級のボクシングチャンピオンであったシュガー・レイ・レナードに挑戦、15回判定勝ちを収め2階級制覇を成し遂げるのですが、5ヵ月後のレナードとの再戦でレナードの消極的なまでのヒット・アンド・アウェイに嫌気がさし8R試合放棄負け。更に1階級上げて望んだ1982年のWBCスーパーウェルター級タイトルマッチで惜敗、いよいよ引退かと思われました。しかし、1983年6月にはデビー・ムーアとのWBAスーパーウェルター級タイトルマッチで8RTKO勝ちを収め3階級制覇を成し遂げます。デュランは更に2階級上げてミドル級ボクシングチャンピオンのマービン・ハグラーに挑むものの15回判定負け。1984年にはWBCスーパーウェルター級ボクシングチャンピオンのトーマス・ハーンズに2回TKO負けしてしまいます。そして38歳となった1989年、WBC世界ミドル級ボクシングチャンピオンのアイラン・バークレーに挑み12回判定勝ちし、4階級制覇を成し遂げたのです。その後も戦い続けたデュランでしたが2001年には交通事故で重傷を負ったことを受けて現役から引退しました。生涯成績120戦104勝69KO16敗。一年間に3〜4試合という近年稀に見るハイペースで戦い続けた、逞しきボクシングチャンピオンです。
歴代ボクシングチャンピオンにおいて、最年長で世界ボクシングチャンピオンになったのがジョージ・フォアマンです。フォアマンは1968年のメキシコオリンピックで金メダルを獲得後、同じくオリンピック金メダリストモハメド・アリやジョー・フレージャーと同じくプロに転向します。その強打に定評のあったフォアマンはプロデビューからわずか2年でヘビー級北米ボクシングチャンピオンの座に着きます。そして1973年、アリから初めて勝利を勝ち取ったボクサーとなったジョー・フレージャーとのタイトルマッチではわずか2RKOで勝利し、第5代NBA世界ヘビー級ボクシングチャンピオンの座に着いたのです。しかし翌年、兵役拒否によるブランクを克服したモハメド・アリとの防衛戦で、アリの「ロープ・ア・ドープ」戦法によって自慢の強打を空振りさせられ続け、敗北を喫してしまいます。1977年にフォアマンは引退を表明し以降は宗教活動を通しての青少年育成に努めていました。
しかし、1987年には青少年のための更生施設を建築するために再びリングに舞い戻り、1991年のイベンター・ホリフィールド戦、1993年のトミー・モリソン戦とタイトルマッチに挑み続け、1994年には45歳にして遂にマイケル・モーラーからWBA・IBF世界ヘビー級ボクシングチャンピオンの座を奪取したのでした。「戦う目的があれば、人はどんなも苦しみにも耐えられる」、一途な信念を持って挑戦したフォアマンのボクサー人生は1997年11月22日を持って終了しましたが、その飽くなき挑戦心は、巨人からオリックスに移籍した清原和博選手も共感したと清原選手自ら語っています。
今や、バラエティ番組の常連となったガッツ石松ですが、WBC世界ライト級ボクシングチャンピオンだったのです。1966年にヨネクラジムからプロデビューしたガッツは当時本名の鈴木有二と「森の石松」を合わせた鈴木石松と言うリングネームだったのですが、「不利になると諦めてしまうファイトスタイルを改善して欲しい」という願いを込めたガッツ石松に変えたのでした。ガッツポーズの由来は、試合に勝ったガッツが取ったポーズに新聞記者が「ガッツポーズだ」とタイトルを付けたことにあると言われています。
そしてガッツは、「名伯楽」と謳われたボクシングチャンピオン養成に長けたトレーナーのエディ・タウンゼント氏と出会い、エディ氏の薫陶を受けて1969年には全日本ライト級新人王になります。1970年には世界挑戦が決まっていたジャガー柿沢の、世界前哨戦の相手に選ばれるのですが、判定勝ちしジャガー柿沢の世界挑戦権を奪取、6月にはWBA世界ライト級ボクシングチャンピオンのイスマエル・ラグナと対戦するのですが惜しくもTKO負けを喫してしまいます。1972年には東洋ライト級王者、そして1973年にはWBA世界ライト級ボクシングチャンピオンであったロベルト・デュランと対戦することになります。しかし、前述の通り当時のデュランは脂の乗った時期だったため、早々に勝ちを諦めてしまい10RKO負けを喫してしまいます。続く1974年にWBC世界ライト級ボクシングチャンピオンであったロドルフォ・ゴンザレスとのタイトルマッチでは「幻の右」が炸裂し8RKO勝ちを収め王座に上り詰めたのです。その後、5度の王座防衛を果たしたのですが、ライト級での体重維持が困難になり、試合毎の減量苦に悩まされるようになっていきます。そして1976年にはエステバン・デ・ヘスス戦に破れ王座陥落、1977年には階級を上げて挑んだWBC世界ジュニアウェルター級タイトルマッチに破れ、1978年に引退してしまいます。体重維持は全てのボクサーに付き物であるといわれていますが、ガッツの体格は既にライト級にとどまることを許さなかったのです。その上、29歳と言う年齢がライト級より上の階級で戦うには既に遅すぎたのでした。
引退後はタレントに転向し、ドラマ「おしん」や映画「太陽の帝国」「ブラック・レイン」などに出演し、俳優としてのキャリアを積み重ねていったのです。また、はなわの「ビバ・ガッツ〜伝説の男〜」でも知られる数々のガッツ伝説(太陽が昇る方角を聞かれて「右」と答えた、飼っている猫の名前は「ネコ」、「ボクシングと出会って人生が380度変わった」、現役時代にやくざ8人と路上で喧嘩になって全員KO、警察の事情聴取に際して、賞状の「ボクシングチャンピオンは何時いかなる時でも挑戦を受けなければならない」という一文を根拠として答えて、ボクシングチャンピオンに授与される賞状からその一文が削られた、など)が存在しますが、ボクシング中継での解説では打って変わって真摯な態度でボクシングに対する情熱を語るという一面を見せています。日本でもっとも愛されているボクシングボクシングチャンピオン、それがガッツ石松なのです。
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